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ロンガン物語|名前の由来・漢代の歴史と「龍眼」の伝説

古地図と龍を背景に、ロンガンの名前の由来・漢代の歴史と龍眼伝説を案内するタイトル画像

この記事の結論

割った果実の中から現れる、黒い種と白い仮種皮。その姿が「龍の眼」に見立てられて名付けられたことは、姉妹記事のロンガン図鑑で紹介したとおりだ。

記事タイプ主な比較ポイント向いている人
図鑑分類・生態・品種・旬特徴や違いを比較したい人
物語この記事原産地・歴史・文化・伝説背景まで深く知りたい人
食べ方選び方・切り方・保存方法買って実際に楽しみたい人

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ロンガンの名前の由来、漢代の記録、ベトナムの産地伝承、学名、世界への広がりと龍眼伝説をたどります。

割った果実の中から現れる、黒い種と白い仮種皮。その姿が「龍の眼」に見立てられて名付けられたことは、姉妹記事のロンガン図鑑で紹介したとおりだ。

ロンガンの黒い種と白い仮種皮を龍の眼に重ねたイラスト
この小さな「龍の眼」は、大航海時代より約1600年前の出来事を記した地誌にも登場する。

しかし、この果物の物語は、名前の由来だけでは語り尽くせない。後世に編まれた地誌『三輔黄図』は、紀元前111年に漢の武帝が南越を破った後、龍眼や茘枝など南方の植物を宮苑へ移したと伝える。ロンガンは、パイナップルがヨーロッパの記録に登場する1493年よりはるか前から、東アジアの文献に姿を見せている。

パイナップルとロンガンが文献に登場する時期と広がり方を比べた図
歴史の幕開け、旅の方向、出会いの性質、日本への扉——同じ「果物の旅」でも、パイナップルとロンガンはまるで違う軌跡を描く
目次

ロンガンの原産地とアジアへの広がり

KewのPlants of the World Onlineでは、ロンガンの自生域をインド亜大陸から中国南部、マレー半島北西部にかけてとしている。栽培による広がりと自生域は分けて考える必要がある。詳しい分類や生態については、姉妹記事のロンガン図鑑で紹介している。

この果物は、後世の地誌が伝える紀元前111年の出来事の中に姿を現す。

漢代の宮苑に植えられた龍眼

紀元前111年、漢の武帝は、現在の広東省・広西チワン族自治区の大部分と、ベトナム北部を領有していた南越国を滅ぼした。この地に置かれた交趾郡は、紅河(ホン河)流域――現在のハノイを中心とするベトナム北部にあたる。

『三輔黄図』によれば、武帝は南方から得た珍しい植物を育てるため「扶荔宮」を設けた。そこには龍眼、茘枝、檳榔、橄欖などが、それぞれ100本余り植えられたと記されている。これは現代の温室と同じ設備だったと確認できるものではなく、南方植物を集めた宮苑と表現するのが適切だ。

同書は続いて、交趾から移した茘枝100株が育たず、後にわずかに育った1株も実を付けないまま枯れ、その管理を担当した役人らが処罰されたと記している。ここで枯死と処罰の対象として明記されているのは茘枝であり、龍眼ではない。

南越平定後、扶荔宮に龍眼や茘枝など南方植物が植えられたことを示す歴史図解
南越平定後に龍眼などの南方植物が扶荔宮へ移されたという地誌の記述と、茘枝にまつわる逸話を区別して示しています。

暖地の植物を気候の異なる宮苑で育てようとする試みは、17〜18世紀のヨーロッパでパイナップルを栽培した人々の姿とも重なる。ただし、古典史料の成立時期や記述の性格を踏まえ、史実の細部を断定しすぎない注意も必要だ。

後漢の貢納制度と過酷な輸送

宮苑への移植とは別に、南方から龍眼と茘枝を献上する制度も記録に残る。

『後漢書』和帝紀の注に引かれる記録では、交趾七郡から生の龍眼などを運ぶため駅伝が昼夜を問わず走り、険路や猛獣による死者が絶えなかったという。臨武県長の唐羌がその弊害を訴えると、和帝は献上をやめさせたとされる。後世の『三輔黄図』には「安帝の時に廃止」とする記述もあり、皇帝名には史料間の差がある。

交趾など南方から龍眼や茘枝を運んだ駅伝を描いた地図
後漢の記録が伝える龍眼・茘枝の過酷な駅伝輸送と、制度廃止の経緯。

唐代の楊貴妃が、茘枝を新鮮なまま食べるために早馬を走らせたという故事は比較的よく知られているが、それより数百年も前、漢代にはすでに同じような犠牲をともなう貢納の仕組みが存在していたことになる。

ベトナム・フンイエンに残る「祖先の木」

漢代の記録から長い時を経た現在も、ロンガンとベトナムの深い関わりを物語る木が残っている。

北部フンイエン省の古い町フォーヒエンにあるチュア・ヒエン(ヒエン寺)の境内には、地元で「祖先の木(cây nhãn tổ)」と呼ばれる古木が立っている。ベトナム知的財産庁は、フンイエンでのロンガン栽培を約300年の歴史と紹介し、この木を地域最古の木としている。

フンイエン省の寺に立つ、地域で祖先の木と呼ばれる古いロンガンの木
フンイエンで約300年続く産地の象徴として伝えられる「祖先の木」。

地元の伝承では、この木の実は香りと甘みが優れ、仏や皇帝への献上品に選ばれたという。この物語から、フンイエンのロンガンは「ニャン・ティエン・ヴア(nhãn tiến vua、皇帝への献上ロンガン)」とも呼ばれる。これは産地に伝わる由来譚であり、漢代の貢納制度と直接つながるとまでは確認できない。

品種名にある「ロン(lồng)」という言葉の由来にも、地域の紹介資料で複数の説が語られている。収穫した実を竹かごに入れて守りながら運んだとする説、種を抜いた可食部に蓮の実を詰めた料理にちなむとする説、可食部が厚く重なる様子を表したとする説などだ。確定した語源ではないため、いずれも伝承として受け止めたい。

「lồng」の由来として語られる竹かご、蓮の実、厚い可食部の3説を描いた図
竹かご、蓮の実を詰めた料理、厚い可食部など、「lồng」の由来には複数の説が伝わっています。

1790年、ロンガンの学名が発表される

ロンガンの学名を発表したのは、ベトナムに長く滞在したポルトガル人イエズス会士ジョアン・デ・ロウレイロだった。

1790年、ポルトガル人イエズス会士ジョアン・デ・ロウレイロが、著書『Flora Cochinchinensis』で Dimocarpus longan を発表した。現在もこの学名が受け入れられており、末尾の「Lour.」は命名者ロウレイロを示す。

ロウレイロは1742年、当時ヨーロッパで「コーチシナ」と呼ばれていた地域――現在の中部・南部ベトナムにあたるダントロン(Đàng Trong)へ渡り、1777年まで約35年間滞在した。数学者・博物学者として宮廷に仕え、現地の薬用植物についての知識を蓄えた。その後ヨーロッパへ戻り、著書はリスボンで刊行された。

ロンガンの植物画と、書斎で執筆するジョアン・デ・ロウレイロの想像図
ロウレイロはコーチシナで現地の植物知識を蓄え、帰国後に刊行した『Flora Cochinchinensis』で学名を発表しました。

ロウレイロが発表した学名は、約35年にわたるコーチシナ滞在中に蓄えた植物知識に根ざしている。ただし、学名を掲載した著書が刊行された場所はベトナムではなく、リスボンである。

20世紀、ロンガンは世界の栽培地へ

漢代の記録に現れ、ベトナムの寺に祖先の木を残したロンガンは、その後も各地へ広がっていった。

ロンガンの栽培は、タイ、インドネシア、マレーシア、フィリピンなど東南アジア各地へ広がった。地域ごとの詳しい伝播時期や経路については、確認できる資料が限られている。

近代には、中国南部から1903年にフロリダ州へ導入されたとする記録がある。現在はアジアだけでなく、フロリダやハワイなどでも栽培されている。年ごとの貿易量は変動が大きいため、本文では古い単年値を現在の規模として示さない。

アジアから各地へ広がるロンガンと、1903年のフロリダ導入を示す世界地図
20世紀初頭にフロリダへ導入され、現在は温暖な地域で栽培されています。

ベトナム産生果実に、日本市場への扉が開く

ここまでたどってきたように、ロンガンは漢代の記録にも姿を見せる果物だ。一方、ベトナム産の生果実が日本へ商業輸入できるようになったのは、ごく最近である。

沖縄県などでロンガンがわずかに栽培されている記録はあるものの、日本への詳しい導入時期や経緯を示す資料は限られている。

転機は2022年11月18日だった。この日、農林水産省(植物防疫所)は、定められた基準と実施細則を満たすベトナム産りゅうがん生果実の輸入を解禁した。2023年には国内で販売例も現れた。ただし、これは条件を満たした商業貨物の制度であり、旅行者がベトナムの市場で買った生果実を手荷物で持ち込めるわけではない。

日本の扉とロンガンを描き、2022年の輸入条件変更を示す図
2022年11月18日、基準と実施細則を満たすベトナム産りゅうがん生果実の商業輸入が解禁されました。

漢代の宮苑と貢納路、フンイエンの祖先の木、ロウレイロによる学名、そしてベトナム産生果実の輸入解禁。日本市場との関係には、今まさに新しい章が加わりつつある。

「龍眼」と「桂圓」の名前を語る民間伝説

ここからは歴史的な記録ではなく、中国に伝わる民間伝承の話である。

昔、ある村を一頭の悪い龍が荒らしまわっていた。田畑を踏み荒らし、家屋を壊し、人々を苦しめていたこの龍に、桂圓(グイユエン)という名の若者がただ一人で立ち向かった。鋼の刃で龍の左目を突き刺し、反撃を受けながらも右目をえぐり出す。龍は出血多量でついに息絶えたが、桂圓もまた深手を負い、命を落としてしまう。

若者が龍と戦う中国の民間伝承を描いたイラスト
歴史書から離れ、民間伝承の世界へ

村人は、龍の両目と桂圓の亡骸をともに埋葬した。すると翌年、その場所から2本の大きな木が生え、丸く輝く種を持つ果実を実らせた。種の様子が龍の眼によく似ていたことから、この果実は「龍眼」と呼ばれるようになり、そして龍を倒した若者の名にちなんで、乾燥させたものは今も「桂圓」と呼ばれている――というのが、この伝説の大筋である。

若者と龍を埋葬した場所からロンガンの木が生えたという伝承の場面
生果実を「龍眼」、乾燥果実を「桂圓」と呼ぶ由来を一つに結び付けた民間伝承です。

別のバージョンでは、桂圓は3日3晩にわたって川に棲む蛟龍(こうりゅう、水中の悪龍)と戦って倒し、龍の眼を取り出したものの、それを奪おうとした役人に追い詰められ、片方の目を飲み込み、もう片方は砕け散ってしまったと語られる。桂圓の死後、彼が埋葬された場所から木が生え、白い仮種皮と黒い種が龍の眼に似た果実がなったという結末は共通している。

いずれも後世に形づくられた民間伝承とみられ、史実としての裏付けはない。ただ、「龍眼」と「桂圓」という二つの呼び名の由来を、一つの物語で同時に説明している点が印象的だ。

古典史料から現代の植物検疫へ

ロンガンの物語は、漢代をめぐる古典史料から始まる。ただし、古典に残る記述、地域の伝承、近現代の公的記録は、確かさの種類がそれぞれ異なる。

後世の地誌は紀元前111年の南越平定後に龍眼が宮苑へ移されたと伝え、後漢の記録は過酷な献上輸送の廃止を記す。ベトナムの寺には約300年続く産地の象徴「祖先の木」が立ち、18世紀にはベトナムに長く滞在した学者が学名を発表した。そして2022年、条件を満たすベトナム産生果実に日本市場への扉が開いた。

漢代の記録、1790年の学名、1903年のフロリダ導入、2022年の輸入解禁を結ぶ年表
漢代の記録から、条件を満たすベトナム産生果実の日本向け輸入解禁までを結ぶ年表。

次に、あの茶色くて丸い実を割るとき、その白い仮種皮と黒い種の向こうに、古典史料、産地の伝承、植物学、植物検疫へと続く長い旅があることを、少しだけ思い出してみてほしい。

ロンガンの歴史についてよくある質問

ロンガンはなぜ「龍眼」と呼ばれるのですか?

半透明の白い仮種皮に包まれた黒い種が、龍の眼に見立てられたためです。日本語では「リュウガン」、ベトナム語では「Nhãn」と呼ばれます。

ロンガンは漢代の史料に登場しますか?

後世に編まれた地誌には、紀元前111年の南越平定後、龍眼などの南方植物が宮苑へ移されたという記述があります。ただし、後世の史料であることを踏まえて読む必要があります。

「桂圓」と「龍眼」は違う果物ですか?

一般には同じロンガンを指す呼び名です。「桂圓」は乾燥品に使われることが多い一方、名前の由来には複数の民間説があり、史実として確定した一説ではありません。

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参考資料

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この記事を書いた人

ベトナム・ハノイ在住。現地の市場やスーパーで実際に果物を購入し、味・旬・選び方・食べ方を紹介しています。日本ではあまり知られていない南国フルーツの魅力を、現地での体験をもとに分かりやすくお伝えします。

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