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ミカンの歴史と物語|温州・サツマの名前とベトナムの文化

「ミカン物語:東へ向かった果実と、2000年の詩の系譜」というタイトルと「なぜ一つの柑橘が、武家社会に忌み嫌われ、太平洋を渡り、異国の皇帝に愛されたのか。」という副題

温州みかんは鹿児島県長島で生まれたと推定される柑橘ですが、名前には中国の地名「温州」が使われ、海外では「サツマ」と呼ばれています。中国の古い柑橘の詩、日本での評価の変化、アメリカへの伝来、ベトナムのことわざと献上品文化をたどります。

姉妹記事のパイナップル物語は、先住民がすでに栽培し食べていたアメリカ大陸の果物が、1493年のコロンブスの遭遇を経てヨーロッパの記録に登場し、大西洋を渡った物語だった。この年は果物そのものの歴史の始まりではなく、ヨーロッパ人の記録の一幕である。

ミカンにつながる柑橘文化は、古くから東アジアに根を張ってきた。のちに日本の温州みかんは、太平洋を渡ってアメリカへ向かう。パイナップルとの違いは、出発地や渡った海、受け取られ方にある。南米からヨーロッパへの旅も、日本から太平洋を越えたアメリカへの旅も、おおむね東向きであり、互いに逆方向という説明にはならない。

二つの海、二つの果物の旅。パイナップルはアメリカ大陸から大西洋を渡ってヨーロッパへ、温州みかんは日本から太平洋を渡ってアメリカへ。
二つの海、二つの果物の旅。パイナップルはアメリカ大陸から大西洋を渡ってヨーロッパへ、温州みかんは日本から太平洋を渡ってアメリカへ。
目次

紀元前3世紀、屈原が詩に詠んだ「動かぬ心」

ミカン(温州みかん)そのものの生態や誕生の経緯——学名はCitrus unshiuで、原産地は鹿児島県長島であること——は、姉妹記事のミカン図鑑に譲りたい。ここで紹介したいのは、ミカンが連なる柑橘という果物の仲間が、東アジアでどれほど古くから大切にされてきたか、という物語だ。

中国・戦国時代末期の詩人・屈原(紀元前340年ごろ〜紀元前278年ごろ)は、『楚辞』「九章」に収められた詩「橘頌(きっしょう)」で、柑橘(橘)を詠んだ。表向きは橘の木をたたえる詠物詩だが、実際には屈原自身の理想と人格を託した自己表白だとされ、「志を守って動かず、自らを厳しく律する」という高潔な節操と、深い愛国の情を表現していると読まれている。詩の中で屈原は、橘の根が深く固く張っていて、他所へ移し植えるのが難しいことを、一つの土地・一つの志への揺るがぬ忠誠になぞらえた。この詩がいつ書かれたかには諸説あり、屈原が斉への使者だった時期とする説や、楚の頃襄王元年(紀元前298年)、讒言によって追放される直前に書いたとする説がある。

「志を守って動かず、自らを厳しく律する」という屈原「橘頌」の一節を大きく掲げ、橘の根が深く固く張って他所へ移し植えるのが難しいことを一つの土地への揺るがぬ忠誠になぞらえたと解説する図
紀元前3世紀:詩人・屈原が詠んだ「動かぬ根」。動かないことこそが高潔さの象徴とされた果実が、のちに世界を巡る旅に出るという、歴史の皮肉な幕開け。

ここで詠まれた「橘」が、日本生まれの温州みかんそのものを指すわけではない。それでも、ミカンが連なる柑橘の仲間が、パイナップルよりも1700年以上早く、すでに東アジアの詩の中で「動かぬ根」を持つ高潔さの象徴として語られていたという事実は、この果物の物語の始まりにふさわしい一幕といえる。

日本で生まれ、種なしゆえに嫌われた時代

この記事でいうミカン、すなわち温州みかんが日本の鹿児島県長島で生まれた経緯は、姉妹記事のミカン図鑑で詳しく紹介している。ここで注目したいのは、生まれてからしばらくの間、この果物が必ずしも歓迎されていなかったという逸話だ。

温州みかんは初期に「長島蜜柑」「唐蜜柑」などと呼ばれ、種の少なさが「子孫ができない」という連想につながり、武家社会で縁起が悪いと受け取られたという逸話がある。ただし、これは伝えられてきた話として紹介するもので、日本全体の栽培の動きを一つの理由だけで説明するものではない。

上段に「武家社会→『種が無い』→子孫が絶える連想→縁起が悪い不吉の象徴として忌避」、下段に「江戸後期の庶民→『種が無い』→食べやすく味が良い→大衆の冬の味覚として大流行」という2つの流れを対比した「日本におけるパラドックス:種なしゆえの受難と逆転」の図
日本におけるパラドックス:種なしゆえの受難と逆転。同じ「種が無い」という性質が、不吉の象徴にも、庶民の人気にもなった。

江戸時代後期から明治期にかけて、種が少なく食べやすいことや味が評価され、栽培が広がった。19世紀末には商業生産が拡大し、小ミカンに代わって日常の「ミカン」として定着していく。初期の逸話と、実際の生産拡大の歴史を分けて読むと、この果物の変化が見えやすい。

鹿児島県長島での誕生(長島蜜柑・唐蜜柑と呼称)から、庶民の支持を得て栽培が拡大し、明治27年(1894年)に本格的な生産が始まり小ミカンに完全に取って代わるまでの3段階を、同心円が徐々に大きくなる図で示した「逆転劇:日本の冬の主役『温州みかん』の誕生」の図
逆転劇:日本の冬の主役「温州みかん」の誕生。1894年、本格的な生産が開始され、日本で「ミカン」といえば温州みかんを指す時代へ。

太平洋を越えて、「サツマ」の名でアメリカへ

日本で評価を高めたミカンは、19世紀の終わりに、思いがけない旅に出る。太平洋を越えて、アメリカ大陸へ渡ったのだ。

記録に残る最初の導入は1876年、フロリダ州のジョージ・R・ホールによるものとされる。同じ1876年と1878年には、「Owari(尾張)」という品種名の温州みかんも日本から到着した。この果物にアメリカで「サツマ(satsuma)」という名前が定着したのは、1878年、日本駐在の米国公使ヴァン・ヴァルケンバーグ将軍の夫人が、この柑橘の原産地とされる旧薩摩国(現在の鹿児島県)にちなんで、苗木を本国へ送ったことがきっかけだったと伝えられている。日本の一地方の名前が、そのまま海を渡った先の新しい呼び名になったのである。

日本の鹿児島から太平洋を越えてアメリカ・フロリダ/メキシコ湾岸へ向かう航路を示した地図と、「1876年:ジョージ・R・ホールによりフロリダ州へ記録上初の導入」「1876年・1878年:『Owari(尾張)』という品種名の温州みかんが日本から到着」という2つの記録を示した「19世紀末:太平洋を越え、新大陸へ」の図
19世紀末:太平洋を越え、新大陸へ。鹿児島からフロリダ/メキシコ湾岸へ、ミカンの新しい旅が始まった。

その後の広がりは急速だった。1908年から1911年にかけて、メキシコ湾岸諸州(ルイジアナ州など)への植え付け用に、接ぎ木された苗木が100万本近くも輸入されたという。パイナップルが大西洋を渡ってヨーロッパの温室で「王」として崇められたのとも、姉妹記事のオレンジ物語で紹介したオレンジがコロンブスの航海で大西洋を西へ渡ったのとも違う。ミカンは、東アジアからさらに東、太平洋の向こうへと旅を続け、アメリカ南部で「サツマ」という日本の地名を背負った、一つの農業地帯を築き上げたのである。

漢字「薩摩」と英字「SATSUMA」を大きく掲げ、1878年ヴァン・ヴァルケンバーグ将軍夫人による命名の経緯、1908〜1911年の約100万本の苗木輸入、日本の一地方名がアメリカ南部の広大な農業地帯を象徴する名に変貌した経緯を示した「アメリカ南部を席巻した『サツマ』の名」の図
アメリカ南部を席巻した「サツマ」の名。日本の一地方名が、新大陸の広大な農業地帯を象徴する名へと変貌した。

ベトナムへ:濡れ衣を着せる果物、そして宮廷に愛された果物

ベトナムでは、ミカン(Quýt、クイット)にまつわる興味深い言い伝えが二つある。

一つは、姉妹記事のオレンジ物語で紹介したことわざ「Quýt làm, cam chịu」だ。直訳すれば「みかん(Quýt)がしたことを、オレンジ(Cam)が受ける」。詳しい由来はオレンジ物語に譲るが、この言葉の中でミカンは、いつも自分がしでかしたことの責任を、近縁のオレンジに肩代わりさせてしまう、いわば「厄介ごとの発端」という役回りを与えられている。

オレンジとミカンを象徴する2つの円が絡み合う図とともに、ベトナムのことわざ「"Quýt làm, cam chịu"(みかんがしたことを、オレンジが受ける)」を大きく掲げ、ミカンが近縁のオレンジに責任を肩代わりさせる「厄介ごとの発端」という役回りを解説した「ベトナムにおける二つの顔:①濡れ衣を着せる果物」の図
ベトナムにおける二つの顔:①濡れ衣を着せる果物。「Quýt làm, cam chịu」ということわざの中で与えられた役回り。

フエ周辺の「Quýt Hương Cần」は、宮廷に愛された果物として語り継がれている。皇帝が村人の献上した実を気に入り、以後、良い実を宮廷へ届ける習わしが生まれたという伝承だ。詩人トゥンティエンヴオンの「Lời quả quýt(みかんの言葉)」は、季節や風雨、皮をむく人と香りの関係を果実の声として描く。グエン・ズーや地域の歌に結び付ける紹介もある。ここでは長い詩句の引用を避け、地域の伝承・文学として紹介する。

ベトナムにおける二つの顔:②皇帝に愛され、詩に詠まれた至宝。詩人トゥンティエンヴオンの詩句が、この品種の誇りを物語る。
ベトナムにおける二つの顔:②皇帝に愛され、詩に詠まれた至宝。詩人トゥンティエンヴオンの詩句が、この品種の誇りを物語る。

もっとも、この栄誉ある品種にも試練の時代があった。2002年ごろには栽培がほぼ絶滅状態にまで陥ったのである。しかしベトナム農業農村開発省の決定(2005年12月5日付)により「保全が必要な国家遺伝資源」に指定され、地域住民の努力によって少しずつ復興が進んでいる。近縁のオレンジに濡れ衣を着せる存在から、宮廷に愛され詩に詠まれる存在まで——ベトナムのミカンは、一つの果物のなかに、両極端な顔を持っているのである。

心電図のような波形グラフの上に、2002年頃「栄華を極めた『Quýt Hương Cần』の栽培がほぼ絶滅状態に陥る」という谷と、2005年12月5日「ベトナム農業農村開発省の決定により『保全が必要な国家遺伝資源』に指定」という力強い山を示した「絶滅の危機から『国家遺伝資源』へ」の図
絶滅の危機から「国家遺伝資源」へ。地域住民の努力により、詩に詠まれた香りが現代に蘇りつつある。

2000年の時を超えて、詩に詠まれ続けた果物

パイナップルが1493年にヨーロッパ人の記録へ登場した出来事は、先住民による長い栽培の歴史と、その後の世界への広がりの中の一場面である。

中国(『楚辞』橘頌、紀元前3世紀:揺るがぬ忠誠と高潔さの象徴)・日本(温州みかん・種なし、江戸後期〜明治:不吉の象徴から大衆の味覚への大逆転)・米国(SATSUMA・100万本の苗木、19世紀末〜:異国の新天地と一大農業地帯の開拓)・ベトナム(Quýt Hương Cần・国家遺伝資源2005年:厄介者ということわざと宮廷の至宝)の4つを並べた表形式の「4つの大地、4つの物語:ミカンの文化的変容」の図
4つの大地、4つの物語:ミカンの文化的変容。中国・日本・米国・ベトナムで、この果物はまったく異なる顔を見せてきた。

ミカン(と、その系譜にあたる柑橘)の旅は、それとはまったく違う性格を持っている。紀元前3世紀の中国では、屈原によって、動かぬ根を持つ高潔さの象徴として詩に詠まれた。日本では、種なしという性質がかつて不吉の象徴として嫌われながらも、江戸後期にようやく評価を覆し、庶民の冬の味覚として定着した。そして19世紀末には、西ではなく東、太平洋の向こうのアメリカへ渡り、「サツマ」という日本の地名を新大陸に刻んだ。ベトナムでは、ことわざの中で近縁のオレンジに濡れ衣を着せる存在でありながら、フエ省の一品種は宮廷への献上品として、詩人トゥンティエンヴオンの言葉によって、その香りを称えられている。

紀元前の柑橘の詩から、ベトナムの地域品種にまつわる詩へ。すべてが同じ品種の物語ではないが、温州みかんとその仲間は、さまざまな土地で名前や記憶を重ねてきた。次に皮をむくとき、その房の奥にある果物と人の歴史を思い出してみてほしい。

皮を剥きかけたミカンのイラストの下に「時代と国境を越え、詩人たちに愛された果実」の文字と、「紀元前3世紀の屈原から、ベトナムの皇帝と詩人たちへ。動かぬ根を讃えられた柑橘は、2000年の時をかけ、東へ東へと静かに海を渡り続けた。」という結びの文章を示した画像
時代と国境を越え、詩人たちに愛された果実。次にミカンの皮をむくとき、その一房の奥に秘められた、壮大な旅の軌跡を思い出してほしい。

現在のミカンの生態・栄養・世界とベトナムの品種・市場動向については、姉妹記事のミカン図鑑で詳しく紹介している。

温州みかんの歴史についてよくある質問

温州みかんはなぜ中国の地名で呼ばれるのですか?

温州みかんは鹿児島県長島で生まれたと推定されていますが、甘みに優れた柑橘の産地として知られた中国・浙江省の温州にあやかって名付けられたという説があります。

温州みかんが海外で「サツマ」と呼ばれるのはなぜですか?

温州みかんの原産地とされる鹿児島県が、かつて薩摩国と呼ばれていたためです。19世紀末にアメリカへ苗木が渡り、「satsuma」という呼び名が定着しました。

屈原の「橘頌」は温州みかんを詠んだ詩ですか?

いいえ。「橘頌」に詠まれた「橘」は、鹿児島県で生まれた温州みかんそのものではありません。この記事では、ミカンにつながる柑橘文化の古い例として紹介しています。


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参考資料

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この記事を書いた人

ベトナム・ハノイ在住。現地の市場やスーパーで実際に果物を購入し、味・旬・選び方・食べ方を紹介しています。日本ではあまり知られていない南国フルーツの魅力を、現地での体験をもとに分かりやすくお伝えします。

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