MENU

イチゴの歴史と物語|原産地・栽培種の誕生・日本とベトナムへの広がり

海を渡ってきた苗に花が咲く。それなのに、期待した果実がなかなか実らない。

18世紀、チリからヨーロッパへ運ばれたイチゴは、栽培する人たちにそんな謎を残しました。苗は育っているのに、何が足りないのか。その答えを探す仕事が、やがて現在のイチゴの成り立ちを明らかにしていきます。

今、私たちが食べる栽培イチゴは、北米と南米に由来する2つの種が、フランスで交雑して生まれたものです。苗を運んだ人、育て続けた人、観察した人。その仕事をたどると、ベトナムの農園や売り場の一粒にも、長い歴史がつながってきます。

この記事でたどるイチゴの歴史

  1. 南米のチリイチゴがフランスへ渡る
  2. 北米のバージニアイチゴとの交雑から栽培種が生まれる
  3. デュシェーヌの研究によって成り立ちが記録される
  4. 日本への伝来と「福羽」をはじめとする品種改良が進む
  5. ダラットやモクチャウなど、ベトナムの高原へ栽培が広がる
1712年以降、南米から持ち込まれたイチゴの苗が白い花は咲かせるものの実らないまま謎として残っていたことを示す図
18世紀のヨーロッパを悩ませた、実を結ばない植物。1712年以降、南米から持ち込まれた苗は青々と葉を茂らせたが、何が欠けていたのかは長く謎のままだった。
目次

1712年|フレジエがチリイチゴをフランスへ運ぶ

1712年、フランスの技術士官アメデ=フランソワ・フレジエは、ルイ14世の命を受けてチリへ向かいました。任務には軍事施設の偵察が含まれ、現地の動植物の記録も行っていました。

そこで彼が目にしたのが、大きな実をつけるチリイチゴ(Fragaria chiloensis)です。ミネソタ大学の紹介によると、フレジエは果実の大きさをクルミや鶏卵にたとえ、白みを帯びた赤色や味についても記録しています。ミネソタ大学「A spy, a botanist, and a strawberry」

ただし、そのイチゴの歴史は、フレジエが見つけた日に始まったわけではありません。現地では先住民がすでに栽培していました。ヨーロッパへ運ばれた苗の背景には、それまで土地の人たちが育ててきた時間があったのです。

世界地図上にフレジエのチリから フランスへの航路を示し、現地の先住民がチリイチゴを栽培していた様子とフレジエの記録による果実の特徴をまとめた図
秘密の任務と、海を渡ったチリイチゴ。1712年、軍事偵察のためチリへ渡ったフレジエは、現地の先住民がすでに栽培していた大きなチリイチゴを記録した。

チリイチゴが実らなかった理由|受粉相手の花粉が不足

フレジエはチリイチゴの苗をフランスへ持ち帰りました。しかし、ヨーロッパの庭園では、花が咲いても実がほとんどつかない例が続きました。

育種家ジョージ・ダロウの著書『The Strawberry』は、フレジエに由来する雌株の結実不良と、その後の解明を記録しています。必要だったのは、受粉できる相手の花粉でした。Darrow『The Strawberry』p.36(米国農務省国立農業図書館所蔵)

ここでいう雌株は、フレジエが持ち帰った苗についての話です。現在の栽培イチゴもすべて雄株と雌株をそろえなければ実らない、という意味ではありません。

また、果実ができないことと、株を増やせないことは別です。イチゴはランナーという茎から子株を増やせます。実りにくい苗も、栽培を続けて増やすことができました。花粉によって実や種ができる仕組みと、ランナーで子株が増える仕組み。その違いが、この物語を読み解く鍵になります。ミネソタ大学「How strawberry plants grow」

花粉が届かず実を結べない花と、ランナー(匍匐茎)を伸ばして子株を増やす様子を対比した図
果実ができなくても、苗を増やせた理由。受粉相手の花粉がなく実をつけにくい株も、ランナーから子株を増やすことができた。

栽培イチゴの誕生|北米種と南米種がフランスで交雑

ヨーロッパには、北米東部に由来するバージニアイチゴ(Fragaria virginiana)も運ばれていました。この種とチリイチゴとの交雑から、現在の栽培イチゴであるオランダイチゴ(Fragaria × ananassa)が生まれます。栃木県のいちご研究所も、その成立を18世紀のフランスと説明しています。栃木県「いちごのルーツ」

受粉して実ができることと、新しい交雑株が育つことは、ここでも分けて考える必要があります。受粉によってできた種をまき、そこから育った株に、両親に由来する特徴が現れるのです。

研究史をまとめた論文では、ヨーロッパの庭園に大きな赤い果肉のイチゴが現れ、それらの偶発的な交雑個体が、その後の栽培を支えたと説明されています。最初の交雑を一匹のミツバチや一つの庭の出来事として再現するより、異なる土地の植物が持ち寄られ、育てられる中で生まれた変化として見ると、歴史の姿が伝わります。Hancockほか「Our Southern Strawberry Heritage: Fragaria chiloensis of Chile」

イチゴには故郷がないのではなく、祖先となった植物の土地と、栽培種が成立した土地がある。その来歴が、南北アメリカとフランスを結んでいます。

チリイチゴとバージニアイチゴが昆虫を介して交雑し、オランダイチゴが誕生したことを示す図
南北アメリカに由来する2種がフランスの庭で出会い、交雑して現在の栽培イチゴが生まれた。

1766年|デュシェーヌが交雑の歴史を記録

この変化を調べたのが、フランスの植物研究者アントワーヌ・ニコラ・デュシェーヌです。彼はイチゴの花の性質や交雑を研究し、1766年に『イチゴの自然史(Histoire naturelle des fraisiers)』を刊行しました。1747年生まれの彼は、まだ10代でした。フランス国立園芸協会図書館・Hortaliaの書誌記録

研究史では、デュシェーヌが1766年に大果の栽培イチゴをチリイチゴとバージニアイチゴの交雑に由来するものと説明したことが紹介されています。Hancockほか「Our Southern Strawberry Heritage」

苗を持ち帰るだけでは分からなかったことが、育てて比べ、記録することで見えてきました。イチゴの歴史には、海を渡る華やかな場面だけでなく、庭で花や実を観察し続ける仕事もあります。

植物図譜と虫眼鏡で、デュシェーヌによるイチゴの観察と研究を表した図
育て、比べ、記録する観察が、イチゴの交雑と性質の解明につながった。

日本への伝来と品種改良|福羽が普及の礎に

栽培イチゴが日本へ伝わったのは、江戸時代後期と推定されています。明治初期にはアメリカから栽培用の品種が導入されましたが、日本の気象に合わず、すぐには普及しませんでした。

雨に打たれてしおれる輸入初期のイチゴと、日本の気候に適応して実をつける品種を対比したイラスト
日本での再出発と、気候風土への適応。海を渡った苗が、新しい土地の気象にすぐ合うとは限らなかった。

その後の広がりを支えたのが、福羽逸人が外国から取り寄せた種子をもとに育成した「福羽」です。栃木県の資料は、日本の気象風土に合うこの品種の誕生が、栽培の普及につながったと紹介しています。栃木県「いちごのルーツ」

海外からの導入初期の品種(気候が合わず普及に至らなかった)と、福羽逸人が育成した日本生まれの品種「福羽」(気候風土に合い普及の礎になった)を対比した図
土地に合う品種を作る仕事。フランスで生まれた栽培種の歴史は、福羽逸人による「福羽」の育成をはじめ、日本でも品種改良として続いていった。

苗が国境を越えても、そのまま新しい土地に適応するとは限りません。各地で育てる人が選び、交配し、土地に合う品種を作ってきました。フランスで生まれた栽培種の歴史は、日本でも品種改良として続いていきます。

日本品種の海外流出と種苗法|育成者権を守る課題

新品種が国境を越えるときには、利用の約束や権利の問題も生じます。

農林水産省の資料によると、日本の育成者が韓国での利用を許諾した「章姫」「レッドパール」は、許諾を受けた相手以外にも流出し、広く栽培されました。同資料では、韓国でイチゴが品種保護の対象となったのは2012年と整理されています。農林水産省「韓国におけるイチゴ問題の経緯」

この経緯には、契約上の利用範囲と、各国で品種を保護する制度の両方が関わっています。品種が海外へ渡った経緯、そこでの増殖、新しい品種の育成は、それぞれ確認すべき別の出来事です。

日本で育成されたイチゴ品種が国外へ渡り、育成者権の課題が生じた経緯を示す東アジア地図
日本で育成された「章姫」「レッドパール」の国外利用と、品種を保護する制度の課題。

日本では2020年の種苗法改正により、登録品種の輸出先国や国内の栽培地域を指定できる仕組みが設けられ、この部分は2021年4月に施行されました。改正は段階的に施行されており、ここで述べているのは当時の制度変更です。農林水産省「改正種苗法の全体像」

改正前は育成者から正規の許諾者を経て意図しない流出・無断栽培に至っていた流れと、2020年の種苗法改正後は輸出先や国内栽培地域を法的に指定できるようになった流れを対比した図
育成者の仕事と情熱を守るためのルール。2020年の種苗法改正により、登録品種の輸出先国や国内の栽培地域を法的に指定できる仕組みが整えられた。

長い時間をかけて育てた品種を広く届けることと、その仕事を守ること。イチゴの歴史には、この両方を考える章もあります。

ベトナムのイチゴ栽培|ダラットとモクチャウへ

そして、イチゴの物語はベトナムにも続いています。

ダラットでは、農園を訪ねて熟したイチゴを収穫する体験が、ベトナム国家観光局の公式サイトで紹介されています。北部のモクチャウでも、2020年の観光案内にイチゴ農園と収穫体験が登場します。Vietnam Tourism「Farmer for a day in Da Lat Strawberry Garden」、ベトナム国家観光局「Moc Chau plateau, a refreshing retreat」

ベトナムの高原にある近代的なイチゴ農園で、栽培者が実を収穫する様子を描いたイラスト
アジアの高原で続く、現代のイチゴの物語。ダラットやモクチャウでは、イチゴ農園での収穫体験が観光案内で紹介されている。

ベトナムへの最初の導入年や、その苗が現在のどの品種につながるかは、今回確認した資料では特定できません。しかし、高原でイチゴを育て、その実を訪問者に届ける営みは確認できます。

店頭のイチゴについても、生産国が分かることと、その品種の祖先が分かることは別です。「韓国産」「ベトナム産」という表示だけから、特定の日本品種の子孫だと決めることはできません。品種名や農園名が分かれば、そこからもう一歩、その一粒の来歴をたどれます。

パック詰めの「ベトナム産」イチゴと、虫眼鏡で覗き込むとその奥に南米・交雑の歴史が浮かび上がる様子を示した図
産地表示だけでは分からない来歴。生産国と品種の系譜は別の情報であり、品種名や農園名が来歴をたどる手がかりになる。

まとめ|イチゴの歴史は約300年のリレー

イチゴの歴史には、チリで果実を育てていた人たちがいて、苗を海の向こうへ運んだ人がいます。実らない理由を調べた研究者がいて、それぞれの土地に合う品種を選び、育ててきた人たちもいます。

積み重なる階段状の台の上にイチゴが乗る図。南北アメリカの原種から現代の食卓まで、5つの層が積み重なる様子を示す
一度の発見ではない。300年の壮大なリレー。私たちが口にする一粒は、決して一人の手柄や一度の発見で生まれたものではなく、すべての層が積み重なって現在のイチゴを形作っている。

今の一粒を、一度の発見や一人の手柄だけで説明することはできません。苗を受け取り、育て、観察し、次の人へ渡す。その積み重ねが、身近な果物を形づくってきました。

複数の手がイチゴを中心に円を描くように取り囲み、土のついた手・虫眼鏡を持つ手・ピンセットを持つ手など、それぞれ異なる役割で果実に関わる様子を示す図
苗を受け取り、育て、観察し、次の人へ渡す。身近な果物は、途方もないリレーの結晶。売り場や農園でイチゴを手に取るとき、はるか遠い歴史から手渡されたバトンの重みを感じてみてほしい。

ベトナムの売り場や農園でイチゴを手に取ったら、どこで、誰が育てたのかにも目を向けてみてください。遠い歴史は、目の前の農園や品種の名前から、少し身近なものになります。

イチゴ三部作をもっと読む

参考資料

参考資料とデータ出典を3列にまとめた図。ミネソタ大学、Darrow『The Strawberry』、栃木県、Hancockほかの論文、農林水産省、Vietnam Tourismの各出典を列挙
参考資料とデータ出典。本資料における制度の記述は、種苗法改正当時の文脈に基づいています。

最終確認日:2026年10月25日。歴史上の出来事と現在の流通を区別し、制度については該当する改正当時の説明を参照しています。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

ベトナム・ハノイ在住。現地の市場やスーパーで実際に果物を購入し、味・旬・選び方・食べ方を紹介しています。日本ではあまり知られていない南国フルーツの魅力を、現地での体験をもとに分かりやすくお伝えします。

目次