
日本のナシの品種名には、それを見つけた人や家、込められた願いが刻まれています。 「二十世紀」は13歳の少年が見つけた木に、新しい世紀への期待を込めた名前です。「長十郎」は、ナシ園を営んでいた家の屋号でした。
歌舞伎界を「梨園」と呼ぶ由来は、唐の玄宗が梨を植えた庭で音楽や演劇を教えたという故事にあります。
この記事では、梨園の由来や品種名に興味がある方に向けて、中国の故事、日本の品種史、台湾の接ぎ木技術、ベトナムの文学と栽培をたどります。
目次
ナシの歴史年表|中国・日本・台湾・ベトナム
| 年 | できごと |
|---|---|
| 弥生時代 | 登呂遺跡から炭化したナシの種子が見つかっている |
| 唐の時代 | 玄宗が梨を植えた庭で弟子に音楽や演劇を教えたとされる(「梨園」の由来) |
| 1888年 | 千葉県の大橋村で、13歳の松戸覚之助が「二十世紀」のもとになる木を見つける |
| 1893年 | 神奈川県の大師河原で「長十郎」が見つかる |
| 1897年 | ナシの病気が流行。病気に強い長十郎が広まるきっかけになる |
| 1904年 | 「二十世紀」と命名される。鳥取県の北脇永治が苗木10本を購入 |
| 1962年 | 二十世紀へのガンマ線照射が始まる |
| 1976年 | 台湾で、低地で温帯のナシを実らせる技術が開発される |
| 1981年 | 二十世紀から黒斑病にかかりにくい枝が見つかる |
| 1986年 | 台湾で日本からの梨穂の輸入が始まる(引用資料による) |
| 1990年 | 「ゴールド二十世紀」として命名登録される |
| 1991年 | 「ゴールド二十世紀」が種苗法に基づき品種登録される |
| 2012年 | ベトナムで、台湾由来の品種VH6が新品種として認められる |
各年の背景と出典は、以下の本文で説明します。言い伝えを含むものは、本文で「〜とされる」と区別しています。
梨園の由来と「孔融譲梨」|中国のナシの故事
川崎市農業技術支援センターの解説によると、ナシの発祥の地は中国の西部・南西部といわれています。そこから一方は東アジアを経て日本へ、もう一方は中央アジアやヨーロッパへ伝わりました。出典:川崎市「ナシの話」(2026年9月29日確認)。
中国では、ナシにまつわる言葉や故事が今も生きています。
歌舞伎の世界を「梨園(りえん)」と呼ぶのを聞いたことがあるでしょうか。日本芸術文化振興会の歌舞伎事典によると、唐の玄宗皇帝が、宮廷の中の梨を植えた庭で、音楽や演劇を自ら弟子に教えたことが由来です。その教え子たちは「皇帝梨園弟子」と呼ばれました。江戸時代の漢学者がこの故事にならって歌舞伎界を「梨園」と呼び、その呼び名が定着したとされています。出典:日本芸術文化振興会「歌舞伎事典:梨園」(2026年9月29日確認)。
もうひとつ、中国の子どもたちが昔から学んできたナシの話があります。子ども向けの教科書『三字経(さんじきょう)』にある「融四歳、能譲梨(融は四歳にして、よく梨を譲る)」です。後漢の孔融(こうゆう)が4歳のとき、大きなナシを兄に譲り、自分は小さなナシを取ったと伝えられています。年長者を敬う心を教える話として、長く語り継がれてきました。出典:三字経網(2026年9月29日確認)。

日本のナシの始まり|弥生時代の種と『日本書紀』
日本とナシの付き合いも長い歴史があります。前述の川崎市の解説によると、弥生時代の登呂遺跡(静岡県)からは炭化したナシの種子が見つかっています。『日本書紀』にも栽培の記述があります。現在日本で栽培されているナシは、日本の中部以南などに自生するニホンヤマナシに由来するとされています。出典:川崎市「ナシの話」(2026年9月29日確認)。
江戸時代になると、各地にナシの産地が生まれます。川崎では、江戸時代初期に大師河原(現在の川崎区)でナシが栽培された記録があり、寛政期から本格的な栽培が始まったといわれています。大正時代には、川崎は関東でも有数のナシの産地になりました。
こうした産地のナシ園から、やがて日本のナシの歴史を変える品種が生まれます。

1888年、13歳が見つけた「二十世紀」
松戸市によると、1888年(明治21年)、大橋村(現在の千葉県松戸市二十世紀が丘梨元町)で、当時13歳の松戸覚之助(まつど かくのすけ)少年が、1本のナシの木を見つけました。
その木に実ったナシは、1904年(明治37年)に「二十世紀」と名づけられます。「二十世紀を代表する品種になってほしい」という期待を込めた名前でした。出典:松戸市「松戸が二十世紀梨発祥の地です」(2026年9月29日確認)。
現在、発見の地は「二十世紀公園」になっています。そこには記念碑とともに、鳥取県から贈られた感謝の碑が立っています。なぜ鳥取県が千葉県の町に感謝の碑を贈ったのか。その理由は、このあとの章で分かります。

1893年、屋号から生まれた「長十郎」|病気に強かった梨
二十世紀の発見から5年後の1893年(明治26年)。川崎の大師河原町(現在の川崎区出来野)にある当麻辰次郎(たいま たつじろう)のナシ園で、ほかのナシとは違う品種が見つかりました。当麻家は「長十郎」という屋号で呼ばれていたため、このナシは「長十郎」と名づけられます。
長十郎は、最初は注目されませんでした。転機は1897年(明治30年)です。ナシの病気が流行し、ナシが全滅に近い状態になったとき、長十郎だけは被害を受けず、収穫量も多かったのです。長十郎は次第に広まり、大正時代には全国のナシの栽培面積の6割を占めるほどになりました。出典:川崎市「ナシの話」(2026年9月29日確認)。
ただし、昭和40年代に入ると、水分が多く甘い「幸水」「新水」「豊水」などの新しい品種に押され、長十郎の栽培は少なくなりました。川崎大師には、今も長十郎の記念碑が建てられています。
ひとつの家の屋号が、一時は日本のナシの半分以上を占める品種名になった。長十郎の物語は、病気が品種の運命を大きく変えることも教えてくれます。

1904年、鳥取へ渡った10本の苗|北脇永治
二十世紀が名づけられた1904年、鳥取県でも大きなできごとがありました。JA全農とっとりによると、鳥取市桂見の北脇永治(きたわき えいじ)が、二十世紀の苗木を10本購入したのが、鳥取の二十世紀梨の始まりです。出典:JA全農とっとり「二十世紀梨」(2026年9月29日確認)。
二十世紀の栽培面積は、昭和8年(1933年)ごろから急速に増えました。急な斜面でも栽培できることが、山の多い鳥取で広まった理由のひとつとされています。鳥取県は二十世紀梨の全国一の産地となり、二十世紀は鳥取県を代表する果物になりました。
千葉県で見つかった1本の木が、10本の苗となって鳥取へ渡り、県を代表する果物に育つ。松戸の二十世紀公園に鳥取県から贈られた感謝の碑があるのは、この歴史があるからです。

黒斑病との闘い|ガンマ線から生まれた「ゴールド二十世紀」
ところが、二十世紀には大きな弱点がありました。黒斑病(こくはんびょう)という病気にかかりやすかったのです。
鳥取二十世紀梨記念館「なしっこ館」の展示解説によると、黒斑病は明治の末ごろから広がり始め、ほかの県では二十世紀の栽培をあきらめるところも出ました。鳥取県では、生産者・大学・行政が一体となって対策に取り組み、二十世紀梨をよみがえらせました。出典:鳥取二十世紀梨記念館 なしっこ館(2026年9月29日確認)。

この病気との闘いは、意外な方法で新しい品種を生みます。育成に使われたのは、茨城県の放射線育種場にあった「ガンマーフィールド」です。半径100mの円形の畑の中心に放射線源を置き、そのまわりに植えた植物に、長期間ガンマ線を照射する仕組みでした。出典:ATOMICA「ガンマーフィールド」(2026年9月29日確認)。
ここに植えられた二十世紀の木から、黒斑病にかかりにくい枝が見つかりました。この枝から育てられたのが「ゴールド二十世紀」(ナシ農林15号)です。育種学雑誌の報告によると、二十世紀は黒斑病に弱く、選抜された枝は中程度の抵抗性を示しました。「ゴールド二十世紀」も、まったく発病しない品種という意味ではありません。出典:育種学雑誌43巻3号(1993年)(2026年9月29日確認)。

育成経過の報告では、照射開始が1962年、耐病性の枝の発見が1981年です。1990年の命名登録を経て、1991年12月に種苗法に基づく品種登録が行われました。「1990年の命名登録」と「1991年の品種登録」は区別する必要があります。照射開始から枝の発見までは19年、品種登録まではおよそ30年の道のりでした。出典:『植物防疫』52巻9号、415頁、農業生物資源研究所研究報告12号(2026年9月29日確認)。

寒さの足りない台湾で|日本の花芽を接ぐ「寄接梨」
ナシ図鑑で紹介したように、日本なしは冬に一定の寒さに当たらないと、春にうまく花を咲かせることができません。では、冬の寒さが足りない暖かい土地では、日本なしは育てられないのでしょうか。

この問題に、独自の工夫で答えたのが台湾です。台湾農業部(日本の農林水産省にあたる)の資料によると、1976年、台中の東勢(とうせい)の農家、張榕生(ちょう ようせい)さんが、低地で温帯のナシを実らせる技術を生み出しました。
その方法は、台湾の山地や日本から調達した「花芽のついた枝(梨穂)」を、低地で育つ在来のナシ「横山梨」の枝に接ぎ木する、というものです。これは品種を交配する方法ではなく、枝を接ぐ栽培技術です。寒い土地で花芽の準備を済ませた枝を接ぐことで、暖かい低地でも日本なしの実をならせることができます。こうして作られるナシは「寄接梨」と呼ばれ、2003年の資料では豊水や新興を中心に、収穫期は5〜7月と紹介されています。当時の同資料では、山地の温帯梨より2〜4か月早い収穫とされています。出典:台湾農業部「台灣梨產業遭遇之問題與因應對策」(2003年1月、2026年9月29日確認)。
同資料によると、初期には台湾の梨山地域から枝を調達し、1986年(民国75年)から日本の産地の枝も輸入するようになりました。採穂園の病害虫対策やウイルス検査を組み合わせ、必要な花芽を確保したのです。1976年の技術開発当初から、日本の枝だけを使っていたわけではありません。

ベトナムのナシの物語|『キエウ物語』の梨の花とバクハー
ベトナムにも、ナシをめぐる物語があります。
ベトナムを代表する古典、グエン・ズー(1765〜1820年)の長編詩『キエウ物語(Truyện Kiều)』。その第2回、主人公キエウたちが清明節に出かける場面は、春の景色を描いた次の4行から始まります。
Ngày xuân con én đưa thoi, Thiều quang chín chục đã ngoài sáu mươi. Cỏ non xanh tận chân trời, Cành lê trắng điểm một vài bông hoa.
意味は、おおよそ次のとおりです(筆者訳)。「春の日、ツバメは機織りの梭(ひ)のように飛び交い、九十日の春の光はもう六十日を過ぎた。若草の緑は地平線まで続き、梨の枝には白い花がいくつか点々と咲いている」。出典:thivien.net「Hồi 02: Kiều chơi tết thanh minh」(2026年9月29日確認)。
緑の草原に白い梨の花が点々と咲く景色は、ベトナムの学校でも習う、春を描いた名場面として知られています。なお、写本によっては3行目の「tận」を「rợn」とする版もあります。
そして現代のベトナムでは、北部の山あいで、ナシが栽培されています。ナシ図鑑で紹介したとおり、ラオカイ省バクハーでは、台湾由来の品種「VH6」が2002年から試験栽培され、2012年に新しい品種として認められました。出典:ベトナム国家農業普及センター(2021年6月8日掲載、2026年9月29日確認)。
台湾の寄接梨は接ぎ木を使う栽培技術、VH6はベトナムへ導入された品種の話です。両者を同じ栽培方式とみなすことはできませんが、どちらも土地の条件に合わせてナシを育てる工夫を伝えています。文学では春の風景を彩る梨の花。現代のバクハーでは、その土地で育つナシの実が農家の収入源にもなっています。

まとめ|ナシの歴史を支えた人たち
ナシの歴史は、ひとつの国の中だけで完結していません。中国で故事が生まれ、日本で品種が見つかり、病気と闘いながら産地が育ち、台湾やベトナムでは、それぞれの気候に合わせた栽培が行われています。
その歩みを支えたのは、いろいろな役割の人たちでした。

- 1本の木を見つけた13歳の少年と、ナシ園を営んだ家
- 10本の苗を買い、県を代表する果物に育てた人
- 病気にかかりにくい枝を選び、試験と品種登録まで取り組んだ研究者
- 台湾の山地や日本から得た花芽を接ぎ、暖かい低地にナシを実らせた台湾の農家
- 台湾由来の品種を、ベトナムの山あいで育てる人たち
ベトナムで「quả lê」を見かけたら、その背景にある長い旅を少し思い出してみてください。見慣れた一つのナシにも、違った表情が見えてきそうです。

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参考資料
以下の資料の初回確認日は2026年9月29日です。再確認した資料と確認日は、各版の校正記録に記載しています。統計・価格・収穫時期は本文に示した調査年や掲載時点の情報です。
- 川崎市農業技術支援センター「ナシの話」:ナシの発祥と伝播、登呂遺跡、川崎のナシ栽培の歴史、長十郎。
- 日本芸術文化振興会 文化デジタルライブラリー「歌舞伎事典:梨園」:梨園の由来。
- 三字経網「融四岁,能让梨」:孔融譲梨。
- 松戸市「松戸が二十世紀梨発祥の地です」:二十世紀の発見と命名。
- JA全農とっとり「二十世紀梨」:鳥取への導入と普及。
- 鳥取二十世紀梨記念館 なしっこ館「梨と生きる『二十世紀梨』ものがたり劇場」:黒斑病と鳥取の取り組み。
- 真田ほか「ニホンナシ黒斑病耐病性突然変異品種『ゴールド二十世紀』の育成」育種学雑誌43巻3号:ゴールド二十世紀の育成。
- ATOMICA「ガンマーフィールド」:施設の概要。
- 台湾農業部「台灣梨產業遭遇之問題與因應對策」:寄接梨の技術と歴史。
- thivien.net「Hồi 02: Kiều chơi tết thanh minh」:『キエウ物語』本文。
-
ベトナム国家農業普及センター「Làm giàu từ cây lê VH6 ứng dụng công nghệ cao」:VH6の来歴。
-
『植物防疫』52巻9号「ナシ黒斑病の耐病性品種による減農薬栽培」:1962年の照射開始、1981年の枝の発見、1991年の品種登録。
- 農業生物資源研究所研究報告12号:1990年6月の命名登録と1991年12月の品種登録。